被災地に行ってきた
3月11日の地震と津波。テレビの中継で津波が町を襲う様子を食い入るように見ていたが。あのときは、いま大変なことが起きているのは分かるのだが、人の想像を遥かに超えているので、何も言葉が出て来なかったような記憶がある。
写真家なら、見るべきだろうと、何となく思っていた。(自分が写真家と名乗れる実力はまだ無いと思うが)
何が起きているのか。興味本位とか自己満足と言われれば否定はできないのだが、テレビで言ってることがすべてではない。風が吹いてるとか、草木がなびいてるとか、何でも良いから自分の目で確かめたかった。
半年以上が経って、今さらながら自分も被災地に行くことができた。
気になるのは、やはりまずは海沿いへ。
家々は流されたのか、解体されたのか、瓦礫は片付けられ、基礎だけが残されている。3月からそのままの家もある。「解体可」の文字も。
水産加工工場(と思しき建物)に入ってみる。津波で建物はボロボロになっている。瓦礫が大量に残っているが、人の手によって、まとめられているようである。鼻を突く、悪臭がする。これが腐敗臭というのか。
窓際には、なんと草が生えている。雑草かと思われたが、何かの苗のようにも見えるが。決して良いとは言えない環境で、立派に枝葉を伸ばしている。自然の生命力の強さというのを感じた。
コンビニも津波で破壊されていた。その脇には使えなくなった公衆電話。電話ボックスの中に鳥が巣を作っていた。既にヒナは巣立ったようだ。
鳥たちがどういう気持ちなのかは分からないが、親鳥は子を育て、子は巣立った。無数に繰り返されてきた自然の営み。それだけなのだが、純粋に、無垢に「生きている」のだなと、思わせられた。
動物の姿そのものを見たわけではないが、荒廃した景色の中で、とても凛々しく、逞しく見えた。本当に、生きる勇気を貰った気がした。
これが率直な感想だ。
震災以降、何となく心は上の空。写真を撮ったり、プリントしたり、しかし何をしようにも、付かず離れず頭の片隅には震災のことがあった。
「行って良かった」という言い方は、決して正しくは無いが、被災地を訪れてみたことは、自分にとって意義のあるものだったと思う。
つづく
写真家なら、見るべきだろうと、何となく思っていた。(自分が写真家と名乗れる実力はまだ無いと思うが)
何が起きているのか。興味本位とか自己満足と言われれば否定はできないのだが、テレビで言ってることがすべてではない。風が吹いてるとか、草木がなびいてるとか、何でも良いから自分の目で確かめたかった。
半年以上が経って、今さらながら自分も被災地に行くことができた。
気になるのは、やはりまずは海沿いへ。
家々は流されたのか、解体されたのか、瓦礫は片付けられ、基礎だけが残されている。3月からそのままの家もある。「解体可」の文字も。
水産加工工場(と思しき建物)に入ってみる。津波で建物はボロボロになっている。瓦礫が大量に残っているが、人の手によって、まとめられているようである。鼻を突く、悪臭がする。これが腐敗臭というのか。
窓際には、なんと草が生えている。雑草かと思われたが、何かの苗のようにも見えるが。決して良いとは言えない環境で、立派に枝葉を伸ばしている。自然の生命力の強さというのを感じた。
コンビニも津波で破壊されていた。その脇には使えなくなった公衆電話。電話ボックスの中に鳥が巣を作っていた。既にヒナは巣立ったようだ。
鳥たちがどういう気持ちなのかは分からないが、親鳥は子を育て、子は巣立った。無数に繰り返されてきた自然の営み。それだけなのだが、純粋に、無垢に「生きている」のだなと、思わせられた。
動物の姿そのものを見たわけではないが、荒廃した景色の中で、とても凛々しく、逞しく見えた。本当に、生きる勇気を貰った気がした。
これが率直な感想だ。
震災以降、何となく心は上の空。写真を撮ったり、プリントしたり、しかし何をしようにも、付かず離れず頭の片隅には震災のことがあった。
「行って良かった」という言い方は、決して正しくは無いが、被災地を訪れてみたことは、自分にとって意義のあるものだったと思う。
つづく
2011-10-23 13:23
| 旅の話
| Comments(2)
それでいいと思うよ。私も同じです
by カエル (2011-10-23 16:18)
どうもどうも。
自分に嘘はつけないですからね。
自分が正しいと思ったことをしようと思います!
by chillout (2011-10-23 23:55)